ふとしたきっかけで大学時代の研究室仲間と忘年会をすることになった。
同じ研究室で苦楽を共にしたDr.S原君とY村嬢。おそらく会うのは4,5年ぶりだったような気がしないでもないが、
再会してみるとお互いちっとも変わっていないもの。
それでも大学に入学(お互いに知り合ってから)してから○十年とか、その年月を数えると愕然とする。
「おかしい…ついこの間、大学を卒業したばかりなのに」
月日の流れは残酷である。
大学職はパラダイス……でもないらしい
Dr.S原君は大学で、Y村嬢は企業で、私は学校で……紆余曲折を経てそれぞれの職に就き、まがりなりにも人を育てる立場になった今、 ある話題で盛り上がった。
事の発端はDr.S原君が研究室で大学院生に研究の指導をしなければならない。
彼は大学院生が論文を書けなければ困るだろうと心配し、こういう視点で研究してみたら?とアドバイスをする。
するとその大学院生、なぜか逆ギレ。
「僕は研究が全てではありませんから」
人のアドバイスは受け入れない癖にプライドだけはやたら高い。いったいどうしたら良いだろうか……という悩み。
大学で研究職につければ人生パラダイスだろうと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
Dr.S原君は自分が衝撃を受けたというインターネットの記事を紹介してくれた。
はじめて逆上がりが出来た女の子:成功後の一言が指導者を撃ち抜く
あるところに逆上がりの出来ない女の子が居ました。
授業で必死に練習しましたが、残念ながらできるようにはなりませんでした。落ち込む女の子を見た担任の先生は「放課後、一緒に練習しよう」と声をかけます。それからの放課後、先生とのマンツーマン練習が始まりました。
練習は毎日の放課後、担任の先生とマンツーマン。女の子は真面目に練習をして、先生も頑張ってアドバイスを掛けます。そんな練習も数週間が経ったある日、ついにその時が来ました。
ついに彼女は逆上がりを成功させました。初めての成功に女の子は大喜びです。先生も我が事のように一緒に喜びます。
次の瞬間、女の子は喜びながらこうつぶやきました。
「もうこれで、逆上がりの練習しなくて良いんだね!!」
(後略)
できるようになりたくないと思っている人たち
彼の話を聞いて、思い当たる節があった。
教員になるまでは、あるいはなってからも色々な教育書を読み込んできた。そしてそのどの教育書にも書いてあったことがある。
「どんな出来ない子やどんな悪がきでも、全ての子どもたちは”できるようになりたい。わかるようになりたい”という気持ちを持っている。 だから我々は子どもたちを見捨ててはいけない」
というもの。
でも色々話しを聞き、子どもたちと接してきて色々経験すると、果たして向上心ってそんなにあるものか……と考えてしまう。
逆上がりの例ではないけれど、例えば部活動。
生徒たちはきっと上手になりたいに違いない、試合に勝ちたいに違いないと思って、熱心に指導する。
だが反応はイマイチ。なかにはアドバイスしたことに対して「あ~、それは無理ですね~」などと平気で返してくるやつもいる。
「じゃぁ、てめぇになんか二度とアドバイスしてやるものか!!」
こちらも頭に来てそう言い放ってしまうが、当人たちは別に困るふうでもない。
ウチの学校に熱心な数学の教員がいる。
最低限の計算力ぐらいはつけないと困るだろうと、毎週末に数学の宿題を出す。
すごいのは宿題を出すだけはなく、やってこない生徒を追い掛け回して放課後に個別指導。とことん生徒に付き合ってできるまで教える。
自分から”わかりません。できません”とプライドが高くて言い出せない生徒たちにとっては渡りに船ではないだろうか。
わざわざ教員が向こうからやってきて手を差し伸べてくれるっていうのだから、こんなありがたい教員はいないのではないだろうかと思ってしまう。
それでもかなりの生徒が逃走する。
もちろん全ての生徒がではない。でも全ての生徒が「わかるようになりたい」と思っているわけではないのも事実だろう。
"無理なく"できるようになりたい
こっちは生徒(学生)は「できるようになりたい」「わかるようになりたい」と思っているはず、という前提で指導する。
生徒がそう望んでくれていれば、お互いに需要と供給がマッチングしていれば相乗効果が生まれるけれど、生徒がそれを望んでいない場合
いくら熱心に指導しても反応が返ってこない。
引用記事の例の小学生ですらそう思っているのならば、中学生はまして、出来上がっている大学生にもなると、もうどうしようもないのでは。
熱心に行けばいくほど、こちらが疲れるだけではないか。
このとき議論に参加していたY村嬢の一言に妙に納得してしまった。
「できるようになりたいと思っているはずです。”無理なく”って言葉が頭につくけど」
そうか。確かに"楽してできるようになる"のだったらできるようになりたいよな。
"苦しい思いをしてできるようになる"のだったら、よっぽど強い動機付けがないと、そうは思わないかもしれない。
例えばやらないと単位を落とすとか留年する……とか。
それでも困らないと思ったら、きっとやらないだろう。本人が困らないのだったら、熱心に外野があーだこーだ言っても無駄だろう。
辛抱強く"待つ"時代
指導する側としては、じっと待つことが要求される時代ではなかろうか。
"ほったらかす"と"待つ"は違う。
一緒に活動して、様子を見て、辛抱強く待って。こちらの言葉やアドバイスがスポンジのようにスッと染み込む瞬間を。
これからはこういうスタンスを必要とされているのかもしれない。
それでいいのかどうか迷うけど。
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