山頂への気力を支え続けていたご来光の夢は、天候の悪化によってもはや風前の灯火。
けれどここまで登って引き返すわけにもいかず……わずかな望みにかけて渋滞の中を歩き出しました。
八合五勺「御来光館」(標高:3,450m)
午前3時10分。
出発後、約7時間40分。
八合五勺「御来光館」到着。
山頂を目指す歩みはかつてないほど亀ペースになりました。歩いては止まり、また少し歩いては止まる。この繰り返し。
自分たちのペースで歩けないことが、いつになくストレスを増幅させ疲労を倍増させていました。
この付近は赤茶色の小さい岩石が無数に転がっている礫地でした。大きな岩の階段がない分、 多少は歩きやすいと感じたものの、遅々として進まない状況に苛立ちを感じていました。
S藤さんの指示のもと、我々はここで30分の大休憩を取ることになりました。と、いうのもこの八合五勺にある御来光館で山小屋は終了。 後は山頂まで一気に登るしかありません。ラストスパートの前に体力を少しでも回復させておこうという配慮だと思われます。
休憩と言っても取り立てて休む場所があるわけではありません。登山者たちの列を離れ、登山道の脇にあるちょっとした礫地帯の山を見つけて、 そこに体を横たえました。まさに指輪を捨てる旅に出た一行状態。
スキーウェアのフードを深く被り、目を瞑ります。
周囲に溢れかえっている登山者が礫を踏みしめる、ガサッ、ガサッという足音と話し声のざわめきが心地よい子守歌に聞こえました。
気分は相当に高揚していて、眠れるかどうか心配でした。
誰かに体を揺すられて目を覚ました。
目を開けると、そこには弟の姿。出発するとのこと。目を開けると既にみんな身支度を始めていました。
どうやらこの状況下に爆睡していたようです。さすが自分。寝ることだけは精神が鍛えられている。
弟に聞いてみると、全然眠れなかったとの返事。
ほんの30分でも眠れたことで、体力が回復したことが実感できました。
離散
再び登山者たちの行軍に混じり、山頂を目指します。
アリのように一列になっている登山者たちの列は、みっしりと隙間なく詰まっていて、部外者は入れさせない空気をヒシヒシと感じました。
まるで高速道路の渋滞の列に軽自動車が入ろうとすると入れさせてもらえないその空気(※1)
(※1)その空気……高級車は入れさせてもらえるのにな(怒)
が、そこは知らぬ顔をして多少強引に列に入れさせてもらいます。
再び3歩進んで2歩止まる、ような遅々とした歩みに回復した体力はあっと言う間に底をつきました。
もうこの先、大休憩ポイントとなる山小屋はありません。
みんな互いに声を掛け合う余裕すらありません。S藤さんは元気があり余っていると思われますが、自分を含めて残りの4人が疲労困憊の極み。 一声を発するごとに体力を消費していく気がします。山頂までの残り距離が見積もれないので、余分な体力を消費する余裕はありません。
ただ足を一歩、また一歩と前に進める作業に集中します。
時折、ふと顔を上げると前を歩いているT橋君は特に辛そうでした。途中から辛そうなのは知っていました。
昨年の富士登山は高山病のためにリタイヤ。今年こそは、と期するものがあったのだと思います。
だから彼にとっては、ここから先は経験したことのない未知への挑戦とも言えます。
特に感じたのは彼が想像以上に薄着だということ。本人はこれぐらいで丁度良いと考えているかもしれませんが。細身の彼には厚手のデニムの上に雨具(カッパ)だけというは、
いくらなんでも寒かろうと思う。
登山は「自己責任」という言葉が当てはまる、数少ないスポーツだと思う。
事前の準備も自己責任。周囲はアドバイスすることはできても、重量と体力を考慮に入れて最終判断するのは結局自分。
もし高山病にかかったら……さらに進むのかここで勇気を出して引き返すのか。判断するのは自分。
ただ一つ言えることは、仲間に迷惑を掛けない。ただそれだけ。
彼は初めこそ休憩するときだけに吸引していた酸素ボンベも常に片手に持ち、吸い続けているような状態。 気休め以上の効果はないのではないでしょうか。
T橋君の前を歩いている、T嶋君は黙々と歩いているものの足取りはしっかりしている様子。自分の後ろを歩いている弟も同様か。 さすがに毎日自転車漕いでいるだけのことはある。
歩みが止まった。
顔を上げるのも億劫でしたが、何事かと聞いてみると、T橋君が少し休みたいとのこと。
彼は疲労困憊していて立っているのもやっとの状態だったようだ。
しかし、よくぞ申し出てくれた。
実を言うと自分も少し休みたかったのです。
我々は光の列から離れ、すぐ横にあった身の丈ぐらいの岩に寄りかかりました。しゃがみ込むスペースはありません。
進むのも退くのも、歩くのも休むのも自分の判断。だけど仲間たちは励ますことができる。見守ることができます。
彼の体力が少しでも回復するまで。彼が再び一歩を踏み出す気力が湧いてくるまで。じっと待ちます。
10分ほど経ったでしょうか。
「もう大丈夫」と彼が言うので、再び山頂を目指すため光の列に加わることにしました。
歩きだした途端に誰かが声を上げた。
「S藤さんがいない」
確かにいない。
夜の帳は未だ下りたまま。ヘッドライトの灯りを頼りに周囲を見回しますが、確かにS藤さんの姿が見えません。
何がどうなっているんだ。休憩の直前まで一緒に歩いていた……ような気がする。
「休憩しよう」となったときにS藤さんは一緒に休んだのか。いや、それ以前に声は届いたのだろうか。もうそんな簡単なことですら曖昧で判らない。
もしかしたらすぐ側でまだ休んでいるのかもしれないと思い、列のすぐ横で立ったまま休憩している連中の顔をヘッドライトで照らしながら捜すが、
人が多すぎて判らない。どの顔も違った。
前にいるのか、後ろにいるのかも判らない。携帯電話は電波がないため使いものにならなかった。
こうなったら山頂で合流できることに賭けるしかありませんでした。
(……最後は己の力で登り切れということか)
(つづく)
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